学校が始まり先ず驚いたことに、学生たちは自分と同じでカナダ以外の国から来ている人たちが多数居たという事です。
カルガリ大学の分校であったこの学校では、ヨーロッパからの留学生がたくさん勉強しておりました。彼らはスウェーデン、ノルウェー、イタリアなどの生徒で、全員が英語をネイティブと同じように話せるのは驚きでした。
りましたので、それを勉強しました。していたことでしょう。
学校から戻ると子供たちのベビーシッター、夕食の手伝いなどの家事が待っており、勉強が出来るのは子供たちが寝た後
の9時ごろからでした。毎日2時間ほどの睡眠で英語の勉強をしました。それと学校から英和辞書の使用を許可していただきました。出来ますが、この頃はワープロでさえ無い時代でしたので手紙を書くことしか連絡を取ることが出来ませんでした。それと、電話を日本にするためにはカナダの電話局オペレーターに電話をかけ、そこから自宅を呼んでもらうと言う方法でしたので、カナダ人オペレーターが英語で「コレクトコールでカナダから電話をしております。あなたはこの電話代を支払いますか?」と英語で話しかけます。このため日本の家族は英語を理解できないので直接オペレーターが自宅に電話をすることが出来ません。
そこでオペレーターは日本のKDDを呼び出し、そこから日本の自宅に電話をか
けるという方法しかありませんでした。このためには3分で3000円以上の電話代がかかりました。当時の3000円は今の1万円以上に相当したと思います。余り電話代が高額なためカナダに居る間に日本の自宅に電話が出来たのは1度だけでした。
時差に関しても事前知識が無かった私は夜中の3時という時間に電話をし、母に迷惑をかけたことを覚えております。
ます。
英語でしか意思の疎通が出来ないので、学問としてではなく意思の疎通を図るためには何としても英語を覚えなくてはならない時代でした。

私は日本の学校で大学も含め7年間も英語を勉強しており、外国語を学ぶ大学としては日本の中でも最高レベルの学校でしたが、「日本の英語教育」のおかしさを痛感しました。
もっとも言葉としての根っこのところで日本語→英語とヨーロッパ系語→英語
とでは異なることが分かってはおりましたが、さすがに自分の英語力の拙さには落胆する以外には無かったです。

この頃は大学付属のESLなり語学学校と言うものは在りませんでしたので、直ぐに大学で他の学生と一緒に学ばなければなりませんでした。英語が全く分らない私は登校日初日は何も理解できず、他の生徒と話も出来ずに一日が終わりました。
Banffの学校はFine Artsの学校でした。写真、絵画、彫刻などです。私が取ったクラスは、短期でしたが“ホテル経営学”のクラスが在

話が戻って、英語力が全く不足したまま授業を受けなければならない私は猛烈に勉強し始めました。恐らく大学受験のための勉強など遥かに凌駕

こんな事が3週間ほど続いたある日、日本に手紙を書こうとして驚いたことが有りました。それは、漢字が分らないのです。例えば「学校へ行く」の「行く」「子供」「好き」等の単純な漢字を全く書くことが出来なくなったのです。
今の時代ではコンピューターや携帯でメールをすることが

今の時代の留学生が「昔は良かったですよね。日本人が居ないので完全に英語漬けに成れますから。」とよく言われます。確かにその通りだと思い

英語を話すことが出来るようになったのは早かったと思います。英語漬けの環境は申し分ないものでしたが、国民性の違い、環境の違いなどで心からお互いを理解できる友人を持つことがなかなか出来なかったというのは有りました。
でも、夢で心が一杯な私には“寂しさ”を感じる隙間は無かったのです。
現在ではカナダやアメリカ、ヨーロッパ、その他の国のことを理解でき、お互いを理解し合える友人に恵まれております。これもあの頃の時間を乗り越えてきたからだと感じます。
先日も1年間ニューヨークに住んでいた友人が「1年も日本を留守にしたとは思えないよね。いつでも声を聞きたければ聞くことができるし、メー
ルでも話が出来るから。全く世界は狭いよね。」と言っていました。
私の留学していた時代では想像も出来ないことでした。しかし、あの環境で無かったら今の私は無かったかも知れません

当時の為替レートは1アメリカドル=286円(羽田か飛び立つ日のレートです)    カナダドルは日本では交換できませんでした。

よかった、よかった。Kazu