邦子さんは夏の終わりごろもう一度来ることを約束してPincher Creekに戻っていきました。今日から再度英語だけの世界に戻ります。

英語だけの世界に戻って1週間ほどしたころです、一人の日本の男の方がバックパックを背負ってHomestead Hotelの裏口を訪れました。この方は南北アメリカ大陸1周をしている方で、浜松の出身ということでした。浜松は私が住んでいる町の県は違いますが隣町です。
彼はHomestead Hotelで働きたいと訪れたようです。彼が訪れて直ぐにお父さんが私を呼びに来ました。英語が殆ど話すことが出来なかったようです。お父さんとの話し合いによりヴィザを持っていないので面ってだって働くことができない為に厨房で働くことに決まりました。しかし、1週間ほど働いた頃、お父さんと2人でCalgaryまで労働許可を取りに行きました。これで彼はHomestead Hotelのどこででも働くことが出来るように成りましたが、厨房の皿洗いを希望したようです。
日本人である事、隣町の出身であること等、彼と話をしたい衝動にはとても駆られましたが、極力会わないようにしました。それは英語のためです。しかし、彼と話をしたことで今でも覚えていることが一つ有ります。中米のどこの国だったかは覚えていないのですが、日本の男性はとてももてたそうです。英語どころか、スペイン語もポルトガル語も話すことは出来ないので、どうして親切にしてくれるのか詳しいことは分らないのですが、夕食を御馳走になったり、宿泊場所の提供を受けたり、船上パーティーにまで招待されたようです。

コトワザでカナダの友達から聞いた言葉と同じ言葉を彼からも聞きました「日本人の女性と結婚をし、アメリカの家に住み、中華料理を食べる人間に成りたい」このコトワザはこの後何度も聞くことになりました。この彼は8月の終わりまで働きトロントへ向けて旅立って行かれました。


邦子さんが帰ってからの私の生活は学校と子供たちの世話に戻りました。そんな中、1週間に1度ほどお母さんにテニスに誘われるようになりました。テニスはラクストン博物館の裏にある公園に行きました。テニスコートもバーベキューが出来る場所も整っておりました。

私が住んでいるころはラクストン博物館、自然史博物館、ホワイト博物館は在りませんでした。たった一つバンフ公園博物館だけで、ここにミイラが展示してあったことは覚えています。

ちなみに観光局は同じ場所にありましたが、もっと規模の小さなものでした。この観光局の前辺りで暇な時は本と飲み物を持って座り込み読書をすることが好きでした。観光局の前はパン屋さんで、1週間に一度食パンを買いに行っておりました。そして、信号も今ほど無かったです。カナダに着いた早々、余りの信号の無さにお母さんに「どうして信号がこんなに少ないのですか?」と訊いた事が有ります。この時のお母さんの言葉はチョット感動しました。「ここでは信号が無くても道路を渡る人が居る時はその人が渡り終わるまで車は止まって待っている。」と言うことでした。今のバンフではこんな事は有りませんが。

そうそう、テニスを始めるためにラケットを買いましたが、実は痛い出費でした。広い公園でロッキーの山に囲まれテニスをしていると、狭い日本の中で大学とバイトに明け暮れていた自分は「何だったのか?」と考えさせられました。そして、これは夢ではなく現実の自分だと思う反面、夢の世界に居るのかな?と感じることも有りました。そして、頑張っている自分のご褒美かな?と思うことも有りました。

夢を追いかけた一人ぼっちの留学は、この後も毎日が夢の中の出来事の様なことが連続していきました。