思い出したことが有ります。
それは私が留学をするに至った道のりです。私の留学出発点になりますが書かせていただきます。
小学校5年生の頃海外に興味を持ちました。アメリカのホームドラマや世界紀行の番組を見て
「いつかは海外に行こう。世界中に友達を作って、友達を訪ね歩くことをしたい。」と思いました。
その為には先ずは何が必要かを考えた末「英語!」と思い当たったのです。

今の時代のように英会話の学校や塾が有るわけでは有りません。
どうすれば良いのか?と考え先ずは英語に関する本を購入しようと思いました。
そして、購入したのが中学生用英語の教科書ガイドブックでした。
今思えば、教科書ガイドなどで勉強しても何も役には立たなかったのですが、その頃は何をしたら良いのか分からず雲をつかむようなものでしたので、教科書ガイドでも大切なものでした。

中学2年生に成った頃、英語担任が授業で「ラジオで英会話の番組があるから聴きなさい」と言われました。
この事を聞いたその日からラジオを聴くことにしましたが「ラジオ英会話」では何を話しているのか全く分りませんでした。
話しているスピードが速すぎ、単語が分らず難しすぎたのです。
今は中学生用の基礎英語番組がありますので、中学生の方たちには基本から勉強することが出来ます。この頃はこの番組は有りませんでしたので分らなくても〈英会話〉の番組を聴くしかありませんでした。

高校の頃、テープレコーダーを買ってもらいテレビやラジオの英語番組を吹き込みました。
でも、今の器具のようにテープレコーダーをラジオやテレビにケーブルを使って直結することは出来ませんでしたので、テープレコーダーに付いているマイクをテレビやラジオに近づけて録音しておりました。

その後ラジカセが出た時にはアルバイトをして貯めたお金で真っ先に購入しました。
これでラジオから直接録音が出来るようになりました。でも、まだまだタイマー付きは出ておりませんでした。

中学生の時、市民プールで同じ年ぐらいの外国人の女の子を見つけ勇気を出して「Can you speak Japanese?」と尋ねたことがありました。
この時の彼女の答えには凄いショックを受けました。
彼女はとても流暢な日本語で「出来ます。でも、あなたはとても失礼ですね。CANを使って相手に能力を質問することはいけないことです。」

私たちは学校で「~が出来ますか?」は気軽にCANを使うことを教えられていました。
ですから、この場面もCANを使えば良いものと思っていました。それが完全に否定されたのです。
それ以後、単語を覚える時には単語の持つ意味や性格も極力覚えることにしました。
この失敗が無かったら今頃はどんな英語を話していたのか?と考えさせられます。この失敗は私には大変プラスになりました。
この女の子はインドの方で、神父さんであるお父様やご家族と一緒に我が町の教会に派遣されていたようです。  
これが外国の方と話をした始めての経験でした。

この頃〈PEN PAL協会〉というものが有りました。これは年会費を払い外国の文通相手を紹介してくれるものでした。早々協会員になり、2名のPen Friendsを持ちました。しかし、何と言っても中学生の英語しか書けません。色々な〈pen pal用英語の書き方〉本を買ってきてその中の文章を引用して手紙を書いておりました。 
自分で考えた文章ではなく既製品の英語で友達を作ろうとするなんて、思えば無知というのか無謀だったのですね~。
3年間ほど文通は続きました。その間いつも考えていたことは、いつか英語が話せるようになったらこの人たちを訪問して、アメリカ中を旅しよう!ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、シカゴなどなど・・・・。そして、いつかは留学をしよう。と夢が膨らむばかりでした。

高校に入ってから担任の先生は英語教科でした。それも3年間同じ先生で、彼女に自分の夢を話したところ色々な面でアドバイスを頂きました。
授業後、希望者数名で英会話の授業もしていただきました。この頃の教材やノートを見返すと全くの初歩を勉強していたこと事が分ります。
それでも自分自身では夢に近づく一歩だと毎日が楽しいものでした。


この頃やっと私が住む町に英会話の教室が出来ました。先生は日本人で、生徒は大勢居りましたので、一対一で会話をすることなど有りません。
大勢の方と先生の後に英語の文章をリピートする。と言う授業でしたが、これさえもとても楽しいものでした。
そして、週一回の授業料を払うために授業日以外は学校が終わるとアルバイトに明け暮れておりました。
大学受験も後半年となるまでアルバイトと生徒会の仕事に追われる生活をしておりました。
でも、真剣に夢を追いかけている自分が大好きでしたよ。
そして、大学も合格し、東京の生活に慣れた頃アルバイト先と学校しか知らない自分が居ました。